中村洋子さん/私なりの恩送りとして障がい児・多胎児を育てるお母さんを支えたい

中村洋子さん
香蘭女子短期大学 保育学科 講師『プリズム』理事長
1968年福岡市生まれ。日本体育大学を卒業後、山口で大学教員に。次女にハンディキャップがあり、一度退職する。2006年産前後・育児期の女性支援団体「すこやかライフサポーター」、2012年には発達障がい・多胎児などの育児を行う母親を支える「プリズム」を設立。当事者の心に寄り添い伴走するママのガイドランナーとして活動中。2015年、短期大学で常勤教員に復帰。宗像市在住。

私なりの恩送りとして障がい児・多胎児を育てるお母さんを支えたい

「足が速く、弱い者いじめする子を追いかけ懲らしめる子でした」と茶目っ気たっぷりに話す中村さん。小学校文集に記した将来の夢は「校長先生」。日本体育大学を卒業後、山口の大学に講師や助手として勤務。28歳で結婚、30歳で長女を出産しても順調にキャリアを積んだ。

予期せぬ退職と看護で疲弊

32歳で次女を出産。そこから思いもよらない運命の波にのまれた。次女には4万人に1人の先天性遺伝子の障がいがあったのだ。症状の一つとして上あごに亀裂が入る口蓋裂があり、自力でミルクを飲めない。すぐ次女だけ総合病院のNICUへ移り、鼻から胃へ管を通してミルクを流し込むことに。10日後、産院を退院した中村さんは混乱したまま次女の病院へ。医師から「おめでとうございます。とてもかわいらしい子ですね」と言われ、どっと涙がこぼれた。それまで出産のねぎらいはあったが、誰にもお祝いの言葉をかけられてなかった。医師の一言で心がほぐれた。

「大変な育児」が始まった。当時、3時間おきに栄養注入が必要な子を預けられる施設はなかった。職場復帰の見通しが立たず、職場から「退職ですね」と促され突然の失業。「一生バリバリ働こうと思っていたのに、どうにもならない現実に育児ノイローゼでした」。次女の世話に追われ、長女の保育園送迎も困難に。極限状態のある日、暗闇に光が差した。長女と同じ園の母親が「チャイルドシートある? うちの車につけて送迎してあげるよ」と言ってくれたのだ。「それまで人に頼るのが苦手だったけど、ただただありがたく泣いてお願いして。それからも多くの方に助けてもらいました」。

次女は2歳9か月で口から食べられるようになった。託児所も見つかり、中村さんも少しずつ自分を取り戻した。だが外で働くのは困難に思え、「自宅で何か教えれば、人が来てくれて次女にもいい刺激になる」と着付を習い始めた。そこで中村さんが他の生徒に手際よく教える様子を見て、小学校のパソコン講師を紹介された。さらに中学校の支援員、短大の非常勤と仕事が舞い込んだ。

自分の可能性を信じ続けて

次女の成長に伴い、生活が落ち着いてくる中、ふとある思いがよぎった。「育児でズタボロだったとき、たくさん助けていただいた。まだお礼ができていない。このままじゃいけない」。そこで仕事の傍ら、9年前に育児支援団体「すこやかライフサポーター」を設立。さらに2年前、発達障がいや多胎児のいる母親をサポートする「プリズム」を立ち上げた。「大変ねと言われる育児をする母親の力になりたい。これは私なりの恩送り。後ろを振り返る恩返しではなく、前向きに恩を送っていきたい」と語る。

そして昨春、短期大学で幼児体育を教える常勤講師に就任。12年ぶりの常勤職に家族も喜んでくれた。「幼稚園教諭や保育士を目指す学生に自分の知識や経験を伝えられるこの仕事はやりがい十分。今年からスポーツを通じて知的障がいのある人の社会参加を応援するスペシャルオリンピックスにも関わることになりました。これをライフワークにしたい。自分を見くびることなく、自分のポテンシャルを信じ続けなきゃ」。経験のすべてを糧に、中村さんは自分の道を切り拓き続ける。

written by 編集部