オフィスの怪 前篇ー女の怪談 Vol.5ー

女の怪談 非常階段

 咲のオフィスビルでは非常階段を使わないというルールがある。避難訓練のときでもエレベータを使うのだ。そのことの疑問を口にするとお向かいの席の沙織が指先を揃えて見ながら答える。
「道に迷った人がいるからだって」
「迷うって非常階段って枝別れしてたっけ?」
「それじゃあ非常階段の意味がなくない? どこのビルとも同じでひとつよ」
「じゃあ、なんで? 迷うって……どうして?」
「霧が出たんですって。しかも濃霧」
「うちの非常階段って外階段だっけ?」
「ううん。屋内」
「どうやって霧が出るの? 煙とか?」
「知らない。でも迷った本人がそう言ったんだって。それ以外にも神隠しみたいに消えた人もいるらしいよ。あくまで噂らしいけど。で、危ないから非常階段は使わないことになったの。閉鎖」
「でも煙草を吸う人は使ってるって」
「煙草はいいのよ。煙草を吸ってる間は何も起きないから。でも踊り場だけで階段上り下りはNGのはずよ」
 ますますわからなくて咲は混乱した。
「どういうこと?」
「化かされないから。知らない? 山で道に迷ったら煙草を吸うといいのよ。そうしたら狐も狸も煙を嫌がって逃げていくから。久留米ではそうするんだけど」
 いかにもそれが通常のやり方だというように言われて、咲は眉をひそめた。福岡市内で育っているものの、久留米ならすぐ傍なので、それほど文化が違うとも思えない。けれどそんな常識、聞いたことがない。
「だって、ここ……狐がいるよね」
「ええっ!」
 驚く私に沙織の方が首を傾げる。
「咲が歯を供えた社は稲荷社だったでしょ」
 そう言えば真っ赤な鳥居の傍には小さな白い陶器の狐が対で置かれてあった。けれど、それとこれとは別な気がする。沙織の言い方はいかにも本物の……山にいるような狐がいるという言い方だ。
「見たことあるの?」
 しっぽの先くらいとか、足元をくすぐるような綿毛の気配くらいはと沙織は言う。見える人はもっと見えるだろうと言われ、同じオフィスビルに勤める友達の話を思い出した。
「そう言えば……鈴が猫を飼ってるオフィスがあるって、そこからときどき逃げてくるみたいで足元を何度かすり抜けられたって言ってたけど……それって……」
「ああ、あるよね。猫のいるオフィスって三階だっけ?」
「なんだ。本当にいるんだ」
「まさか、そこの猫が脱走して他のオフィスに出張してくると思う?」
 咲は首を振る。
「でも鈴は霊感なんてないよ」
「たぶん霊感がついてきてるんじゃない? だってこのオフィスビルに勤めてるんだから」
 その言い方に引っかかりを感じた。
「咲だって、この前おかしなことになったでしょ。このオフィスビルにいると、自然とそうなるのよ。めくれてくるから」
「めくれるって……なにが?」
「霊感ってさ。みんな持ってるの。それが普通はスマホの保護シートみたいに、ぴっちり蓋をしてる。でもおかしな場所にずっといると、何度かおかしな体験をするわけよ。それってシートが繰り返し剥がされる感じと同じ。そうなると癖がつくでしょ。紙とかもめくれてくるじゃない? で、戻りにくくなって、霊感がむきだしになる。そして見えるようになっちゃう。そういうことよ」

後編へ続く

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作者:日野光里のプロフィール

written by 日野光里