渡辺 美穂さん/“我慢の時期”を経てNEC初の女性支社長に!座右の銘は「継続は力なり」

“我慢の時期”を経てNEC初の女性支社長に!
座右の銘は「継続は力なり」

img_2018autumn_27

 日本電気株式会社、通称NEC。1899年の創業以来、あらゆる商品やサービスを提供してきた同社は、現在2万人を超える従業員を擁し、国内に16の支社を構える。これまで支社長ポストは男性だけが担ってきたが、2017年4月、初めて女性の支社長が誕生した。
九州支社長の渡辺美穂さん。明るくオープンな雰囲気をまとっている。

「昇格したいと思ったことはないんですよ。暗黒の時代もあったし…」と笑い、これまでの道のりや思いをざっくばらんに語ってくれた。

必死に働いた波乱の20代

 宮崎で生まれ育ち、東京の大学では文学を専攻して、登山を楽しんだ渡辺さん。
就職活動に臨んだ1980年代半ばは、男女雇用機会均等法が施行される少し前。4年制大学で、しかも自宅外の女性に門戸を開く企業は稀で「4大卒の女性の就職はこんなに厳しいのかと驚きました」。
性別や学部を問わずSE(システムエンジニア)を募集していたNECに入社した。

 初めに所属したのは、東京本社の公共システム事業部。SEの渡辺さんのミッションは、自分でプログラムを組むのではなく、お客さんと話しながら必要なシステムを作り上げること。
ちょうど国鉄が分割民営化されるタイミングで、JR各社がシステムを立ち上げていた。
渡辺さんが関わった仕事は、駅収入管理システムの開発。
それまで駅の収入を管理するためには、乗車券に書かれた運賃を一枚ずつ計算していたが、乗車券の裏に磁気を入れて読み取ることで集計するコンピューターシステムを導入した。

「大きなプロジェクトの動かし方を学ぶことができて、仕事はとても面白かった。とにかく忙しかったけど、バブル期で上司に豪快におごってもらったりしたのもいい思い出です」

 25歳で結婚すると、夫のいる大阪へ異動。出産後もバリバリ働いたが、すれ違いにより離婚。母子で古いアパートに引っ越し、ひとり仕事と育児に奮闘する日々が始まった。
「キャリアは捨てるつもりで、実家がある宮崎への転勤を希望したものの通らなくて、毎日必死でした」。

心身とも限界に達し、わが子を実家に預けた時期も。
「娘が急に成長した夢を見て、ノイローゼみたいになっちゃって…」、子どもを呼び戻して働いているとき、支えてくれたのは地域のお母さんたちだった。
「家のことをしなきゃと焦っていると、好きじゃないことをしなくていいよと言われたり、大丈夫、どうにかなると励まされたり。大らかな大阪のおばちゃんパワーにずいぶん救われました」と振り返る。

会社初の支店長・支社長へ

 32歳のとき、念願かなって宮崎支店へ異動。営業職となり、週末に子どもの預け先がなければ仕事先にも連れて行った。「皆さんあたたかく受け入れてくださって、ありがたかった」。

14年後、支店長に就任したときは喜んだと思いきや、「それまで支店長に対して自由に発言していたのに、自分がその立場になるなんて予想外で(笑)。すぐ切り替えられなかったことを反省しています。次のポジションを見据え、しっかり見て学んでおくことが重要ですね」とアドバイスする。
その後、東京の営業企画本部では「全国女性営業職会議」を企画。約200人の女性が集まる一大会議を成功させた。

 そうして昨年、九州支社長に就任。「普段会う相手が社長や幹部クラスになり、会社の代表として意見を求められることもあって、責任とやりがいを実感しています。業界の垣根がなくなり社会が激変する中で、弊社も個々の力を高め、お客さまの課題を解決できる会社へと進化すべき時期にきています」と表情を引き締める。

 女性のトップランナーとしてひた走り、多くのビジネスパーソンを見てきた渡辺さん。最後に、女性が活躍する秘訣を聞いた。

「プレゼンするときは、思いだけでなく数字もしっかり示すこと。私自身が指摘されて改善したことのひとつです。あとは20代のうちに積極的に仕事を任せてもらって力をため、覚悟を決めること。そうすれば子育て期は仕事をセーブしても大丈夫。継続は力なり。いい方向に考えて、何よりも続けていくことが大切ですよ」

 

日本電気株式会社 九州支社長
渡辺 美穂さん

宮崎市出身。早稲田大学第一文学部を卒業後、日本電気株式会社に入社。情報処理第二公共システム事業部のシステムエンジニアとして東京と大阪で勤務。1995年九州支社宮崎支店の主任として宮崎に赴任し、2010年に同社初の女性支店長に就任。本社の営業企画本部長代理を経て、2017年九州支社長となる。女性が支社長になったのは、同社の創業以来、初めてのことだった。

written by 編集部