
小椋 知子さん
フリーライター
おぐら・ともこ/1965年北九州市生まれ。タウン情報誌「おいらの街」営業企画部を経て、フリーライターになる。平成9年に中途失聴に。一時はライターとしての仕事を諦めた時期もあったが、平成12年に復帰。新聞や雑誌のコラム、エッセーなどを執筆、大学や企業での講座の講師、北九州市福祉のまちづくりネットワーク・メンバーとしての活動など、多方面において活躍中。
http://www.usagiza.com/
小椋知子さんは、成人後に聴力を失った、中途失聴のライターだ。取材は、手話や筆談、音や言葉を文字化して伝える要約筆記という通訳とパートナーを組み、行っている。取材・執筆した記事は多数。月刊誌などに寄稿するほか、共同通信社より配信されている企画連載『チャレンジド』では、障害に立ち向かう人たちを全国の地方紙を通して伝えている。また現在、読売新聞西部本社版にて、エッセー『まちの風、四季の色~小椋知子便り』を連載中だ。
プロとして働く面白さ
27歳の頃は、タウン情報誌「おいらの街」の編集スタッフとして、がむしゃらに働いていた時期。営業・取材・撮影・執筆など、多くの仕事を抱え、若さに任せて不規則な生活を送っていた。「営業として数字を追う面と、記事をただ書くだけでなく、そこで結果を出さなければならないという、媒体力や個人の力を試されている緊張感が、たまらなく面白かった」と小椋さんは話す。
29歳で独立。取材執筆に加え、校正の技術を持っていた小椋さん。情報誌への寄稿や映像ビデオのシナリオを書く他、校閲の仕事をしていた。
突然の失聴
ある日、小椋さんは左耳の不調に気付く。電話の音、テレビの音など、日常生活の音が聞こえにくい。それが右耳でも感じるようになり、症状は急速に悪化。半年後には両耳の聴力を失った。会話が聞き取れないため、人とのコミュニケーションがとれない。日常生活をどう過ごしたらいいのか…。どこに行ってもまず「耳が聴こえません」と言わなければならないことが嫌だったと話す小椋さん。周囲が状況を理解してくれず悔しい思いをした彼女は、話すことを止め、家族ともコミュニケーションをとらない時期があった。
医師から「治る見込みはない」と伝えられ、精神的に追い込まれた。「この不便さを解決するには、どうしたら?」。小椋さんは、聴覚に障害のある人たちがどのように生活をしているのかを知りたくて、障害者福祉会館に足を向けた。そこで現実にショックを受けながらも、解決策を模索したという。
聞こえのハンデから、ライターとして活動をすることを諦めていたが、仕事はしたいと思っていた。職業安定所に行き驚いたことは、「障害があるからと、過去の経歴を無視されてしまう」ことだった。小椋さんは、「このとき初めて、“障害者として生きる困難さ”を、自分の事として理解した」という。
ライターとして復帰
34歳の頃、知人の紹介で、東京のフリーライターから一通のメールが届いた。「編集経験者を求めている」。働く女性向けのメールマガジンの編集の仕事だった。「メールとFAXの受取ができれば仕事はできる。何より経験者を探している」。小椋さんはその言葉に勇気をもらい、仕事を受けることを決意した。メールでの取材を重ね、「この方法ならば仕事ができる」と、少しずつ自信を取り戻していく。その後、外に取材に行く機会が増えていった。筆談で話し、インターネットに記事を執筆するようになる。
手話や要約筆記通訳者を必要とした時、「営利目的では派遣はできない」と断られ、福祉制度の壁を経験。「働くことは悪いことなの?」と憤った。だが諦めず、「どうすれば仕事を続けられるのか」を考え、個人的な繋がりを通じて通訳者と仕事を続けてきた。周囲をちゃんと見渡せば、手を貸してくれる人はたくさんいる。「以前は、人の助けを借りることに抵抗があったが、誰かの助けを借りることでより前に進んでいけるのなら、素直に助けてと言った方が良いと思えるようになった」と話す。
フリーライター小椋知子のポリシーは、「仕事においては、遠慮はしない」。これまで育ててくれた人たちへの感謝を忘れず、さらに先のステップを目指したいと語った。


















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