新しい包丁をおろして直ぐに、ほんのちょっとしたミスで咲は掌を刺してしまった。博多鋏も扱う店で買った抜群の切れ味のおかげで二針縫う傷口だ。
「ついてないな」
給湯室で白い包帯にくるまれた右手を見下ろす。看護婦さんによると掌の傷は縫っても開きやすいらしい。
「無理しないようにしないと……」
そのとき、むずむずとした傷口が、もぞりと動いた気がした。
「……気のせい?」
十日後、抜糸を済ませて通院はしなくて良くなったものの、相変わらず掌には切れ目がある。
「本当に治るのかなあ」
じっと切れ目を見つめていると、もぞりと切れ目が歪んだ。それはまるで小さな口のように見える。
「ひゃっ」
びっくりして傷口を凝視しても、もう動かない。
数日後のオフィスで残業をしているとき、咲は無意識に掌の傷跡をかきむしった。
「つっ」
瘡蓋になっていたそこに、ごりっと固い感触がある。
「中にも瘡蓋ができたのかな? それとも包丁についてたニンニク!?」
ニンニクを刻んでいた時に刺したのだ。もしかしたらそれが中に入り込んだまま縫われていたのかもしれない。
ぞっとしながら、ごりごりとした感触を確かめていると――。
「あっ」
ぐいっと白いものが瘡蓋の間から顔を出した。一瞬、本当にニンニクの欠片かと思ったが、どうも違う。
そっと拾い上げたそれは……。
「……歯」
まるで小さな子供の乳歯……いや、それよりももっと小さい。人形の歯くらいと言えそうだ。
「どうして、傷口から歯が?」
恐ろしくなって歯はゴミ箱に捨てる。
けれど、翌日も翌々日も瘡蓋の下から真珠のような乳歯は漏れ出てきた。
「きりがない……」
最近は風呂上がりの肌が柔らかいうちに、その日の乳歯を押し出すのが日課になっている。おかげで傷口はなかなかふさがらなかった。
「傷口の治りが悪い? それって霊に憑かれているせいじゃない?」
同僚の沙織がオフィスの向かいあった席で爪の手入れをしながら言う。聞けば沙織の祖母は久留米の方で拝み屋をやっていたらしい。思い切って、歯が生まれることも相談してみた。人に言おうと思ったのは、その前日にとうとう傷口が――。
「泣いたのよ。まるで赤ん坊みたいに」
それを聞いても沙織は驚きはしなかった。ただ淡々とアドバイスをしてくれる。
「このオフィスの屋上に小さな社があるでしょ。あそこに出てきた歯を供えてお願いしてみたら。ここの社、相当力が強いみたいだから」
言われるままに残業の後、屋上に一人あがって、小さな神社の前に歯を置いてお参りをする。もう出てこないようにとしっかり頼んだ後、背中を向けて帰ろうとした――。
ぱたり。
小さな社の扉が開く音を聞いた気がした。一瞬だけ振り返ったそこには、血の通わない青白い指先につままれた白い歯が、すっと社の中へと入っていく様が見える。そして、小さな扉は何事もなかったように内側から静かにしまった。
あれから歯は出てこない。泣き声も聞こえない。