叔母が亡くなって2カ月が経ちました。
ブログの更新が大変遅くなり申し訳ありませんでした。
改めまして姪のユミです。
叔母から生前に託されていた事にめどがつき、いま改めて叔母がいない事を実感しています。
遅くなりましたが叔母の最後の更新“960枚の感想文”以降のお話をしたいと思います。
5月最後のブログの“がん終末期を生きる 充実した在宅医療”の段階で、
よくあれだけの更新ができたと思う程に叔母の体力は低下していました。
その時のブログにも書いていましたが、
ほぼベットの上で、自力で通常の生活は難しい状態でした。
そして腹水との闘いにプラスして、抗がん剤治療ができなくなった事により主病巣である胃のガンが活動し始め、
胃痛とひどい吐き気に襲われるようになり、ほとんど食事がとれなくなりました。
がんの痛み自体はそこまでではなかった様ですが、
腹水の圧迫感・吐き気・痩せた事による体の痛みが辛いと言っていました。
この頃から、その緩和の為に在宅医療の先生より提案があり、24時間モルヒネを投与する事になったのです。
ただモルヒネは朦朧としている事が多く私達が予想していたよりも意識は不鮮明になっていきました。
最後の更新から一週間程して、腹水を抜く為に入院する事になりました。
今までは一泊の入院でしたが、吐き気と食事を取れない事、
そして夜間に何かあった時への不安が祖母と叔母自身強くなりそのまま緩和病院に入院する事なりました。
叔母本人は以前から最後は自宅でと言っていましたが、この入院の後に自宅に帰ってくる事はできませんでした。
叔母はある程度の覚悟をしていたと思います。
在宅医療の先生から有田焼の骨壷があると聞いたらしく、私に手配してほしいと言われました。
私自身はすごくショックだったのですが、叔母は笑いながら私がインターネットで印刷した骨壷を選んでいました。
ホントに骨壷まで自分で選ぶなんて叔母らしい話です。
それでも私達も叔母自身も、もう家へ帰ってくる事が出来ないとは思っていませんでした。
入院はいつもの様に母(ブログや本にも出てくる義姉です)と末の妹が付き添いました。
いつもは付き添いの母達も、この時には既に叔母の移動に必要不可欠な状態でした。
そして入院後は、寝返りや体を起す等の看病に毎日の様に母達は病院へ通いました。
もちろん病院の方が寝返りの補助をしてくれますが、
度重なるナースコールへの遠慮と闘病の間に培った母への信頼から、叔母は母の介助を望みました。
そして八十歳を越えても毎日必ず病院に通う祖母。
この入院は家族にとっても厳しい入院でした。
そしてなにより叔母自身、
入院してからも数回腹水を抜いた事もあり、いっそう体力は落ちていきました。
さらに自力での寝返りも難しいなか夜に何度も目が覚めてしまう事が精神的にも
かなりの負担になってきていました。
そこで、先生から睡眠導入剤を使用する事もできる事を聞きました。
ただモルヒネで朦朧としているなかでの睡眠導入剤の使用もあり、
覚醒しにくくなるとの説明を受けました。
私達家族もここに来て特に色々な判断をこれでいいのかと迷ってきました、
特に祖母は本当に悩んだと思います。
しかしなにより叔母がその事を望んだので、
本人の一番楽な状態を優先させる事にしました。
これ以降はほぼ眠っている状態でした。
それでも叔母は祖母の為に頑張り続けてくれました。
本当に最後まで余命を与命へ変えて頑張りました。
そして、7月31日。
本当に穏やかに、少しずつ呼吸を少なくするようでした。
ずいぶん痩せてしまいましたが、安らかな顔でした。
葬儀には沢山の方が来て頂き、ブログにも沢山の方がコメントして頂きました。
叔母は本当に沢山の方々に支えて頂いていた事、
そしてそれは叔母自身が人生をかけて築いてきたものだと思います。
これが尊敬する自慢の叔母の最後の勇姿です。
正直、ブログに叔母の最後の闘いをどこまで書くのかを悩みました。
本人がどこまでそれを望んだのか。
5月の段階で、サクランボを差し入れた私へお礼のメールと一緒にブログの
パスワードが「念のため」と送られてきました。
抗がん剤治療ができなくなってからブログの更新が遅くなった事で
アヴァンティさんへの問い合わせが多くなり、
このブログが叔母のプレッシャーになっている時期もありました。
家族はブログを辞める様に勧めましたが、
絶対に辞めるとは言いませんでした。
この意味を何度も考え、
そして叔母の訃報をお知らせした後の皆様からのコメントを拝見し、
今まで応援して頂いた皆様と同じ様に病気と闘っている方々に全てをお話ししようと思いました。
叔母とよく似ていると言われますが、文才は似なかったようで駄文の上に長文になってしまいましたが、
ここまで読んで頂きありがとうございました。
私にとって叔母は、大きな存在でした。
私は三姉妹ですが、同じ職場にいた事もありましたし出産にも立ち会ってもらったり、
特にかわいがってくれました。
悩んでいる私を叱り
そして必ず最後に「私がついている」と励ましてくれました。
抗がん剤が打てなくなった後も、
自分が苦しいのにも関わらず悩んでいる私を叱った後
電話をかけなおしてきて
「ユミが心配でまだまだ死ねないね。なんか力が出てきた」
と言っていました。
でも、もう叱ってくれる叔母はいません。
私は叔母にどれだけの事を返せたのか、後悔はつきません。
でも亡くなる一か月半程前に
「私の人生いい人生だった」
と私の母に言ってくれたそうです。
それが今の私の救いです。
そして、
叔母がそう思えたのは
“いっこ”を応援して頂いた、すべての皆様のおかげです。
そして、このブログが同じ様に病気で闘っている方のお役にたてれば。
見て頂いた方が、今の日々が永遠ではない事、
だからこそ与えられた命を精一杯生きようと少しでも思って頂ければ。
そうであれば、叔母も喜んでいると思います。
私達家族も、
叔母が最後まで気にかけていた祖母を、
いつも二人で一人だった叔母の代わりにはなれませんが、
叔母と祖母がまた会える日まで淋しくないように支えていきたいと思います。
最後になりましたが、“いっこ”を応援して頂き本当にありがとうございました。