私の会社にはお茶くみ当番の他に、おかしな役回りがひとつある。
「はい。今週は佐々木さんが、お箱当番ね」
そう言って渡されたのは両手で支え持つ大きさの玉手箱。漆黒が美しい漆塗り造りで古風な博多織の紐が結わえられている。本当に開けたら、白い煙が出てきて年老いてしまいそうな雰囲気だ。
少し前、お茶くみ当番が新人の男性がすることもあると変わったものの、このお箱当番はいまだ女性だけで回す。
先輩に聞くと「縁かつぎみたいなものでしょ」と言われた。
当番と言ってもデスクの一番下の大きな引きだしに仕舞っておけばいいだけ。
守ることはたったひとつ……決して中を見てはいけない。
ある日、夜まで残業をしていて、引出からファイルを取ろうとしたときに玉手箱に手が当たった。
ことり……。
それはとてもかすかな音。でも今までしなかった音だ。
不思議に思って、もう一度ふるうと……。
ことり……。
と、やはり頼りなげな音がする。
中の部品が壊れて外れているのかもしれないから明日先輩に相談しようと、その日はそのまま帰った。
「なんで開けなかったんだよ」
ベッドの端に座って寝乱れた髪を整える私の背中に声が飛んだ。
不倫を始めて一年になる競合会社勤めの男は、まだベッドの中で口を尖らせている。禁忌だと言うと、鼻を鳴らされた。
「お前の会社が好調なのも、その箱の御利益かもな。開けてみてくれよ」
彼が何のために私に近づいたか知っている。スパイするだけで奥さんと別れる気がないことも知っている。それでも関係をずるずると引きずり、切れない男だった。
翌日、誰も来ない早朝に出社すると、私はデスクの上に玉手箱を置いた。振れば昨日と同じ軽い音がする。
ことり……。
開けようか……開けまいか……。
迷いながらも開けてしまったのは、箱が少し重くなった気がしたからだ。誘うように白檀の香りまでしてきて、博多織の紐をゆるりと解く。
「ああ……」
切り取られたような漆黒の闇が広がる箱の中、鬼がこちらを覗いていた。息を飲んだ瞬間、それが引き攣った自分の顔になる。
数日後、私は男と別れ、会社も辞めた。
送別会の席で先輩が私に囁く。
「箱の音を聞いたんでしょ」
驚く私の顔に頷くと先輩は静かに話を続けた。
「あれは角(つの)の音よ。きっとあなたの心に鬼の芽があったんでしょうね。心あたりくらい……あるわよね」
先輩の言葉に小さく頷いた。
「でも、思いとどまった。だから鬼にならずに角が抜けたのよ。あの箱の中に……」
「思いとどまらなかったら?」
「さあ……それはわからない。たぶん、出てくるんでしょ。アレが……」
真っ赤な恐ろしい顔を思い出し、ぶるりと震える。
「どうして女性だけでまわすんですか?」
「……女は……踏みとどまれるからじゃない? でも、詳しくはわからないわ。私だって、先輩から言われただけだもの」
数年後、子供を乗せたベビーカーを押しながら、大きくなった元勤め先のビルを見上げる。
今もあの箱は女の手で回されているのだろうか……。きっと回されているのだろう。そして今も、ことりと音を立てているのかもしれない。