仕事、恋愛、結婚、これからの暮らし。
シングル女子の前に現れる人生の曲がり角。
この角を曲がった先にはどんな未来が待っている?
episode 5
わたしのおうちは、どこですか?
抱えていた仕事のプロジェクトがひと段落した週末、久しぶりに実家に顔を出した。
父が亡くなって以来一人暮らしの母はそれなりに日々を楽しんでいるらしく、この日も朝からガーデニング講習会に出かけていて、昼には戻るとのことだった。
私は2階の自室で一冊の本を引っ張り出し、ベッドに寝そべってぱらぱらとめくった。元カレ・黒田建斗がプレゼントしてくれたスティーブン・ショアの写真集だ。
当時、裸電球が机の上に無数に転がっている写真の何がいいのか、正直私にはわからなかった。
マネーセミナーの時に優衣から「建斗が期限付きの仕事で東京から戻ってくる」と聞いて以来、胸の奥がちりちりしていた。
建斗とは学生時代にバイトしていた書店で知り合った。九南大で酵母の研究をしていた建斗はちょっと風変わりな人で、頼まれもしないのにPOPを描いてみたり、本の陳列方法について店長に意見を述べたりと、言われた業務を終えたらさっさと帰る他の学生バイトとは異質の存在だった。
ある時インフルエンザの流行で欠勤が続出し、重たい本の搬入や陳列を建斗が手伝ってくれたことから話す機会が増え、ほどなく私たちは付き合い始めた。大学を卒業して私は就職、建斗は大学院へ進学。私は結婚を考えていたけれど、わずかな仕送りと奨学金で大学院に通う建斗にそんな話はできず、その後建斗が東京本社の酒造メーカーの研究所に就職が決まった頃には自分の仕事が面白くて、会社を辞めて建斗に付いていくことは選択できなかった。あの時建斗は角を曲がり、私はまっすぐ、それぞれの道を歩くことを選んだ。
結局、タイミングなんだよね。
ショアが切り取った70年代アメリカの瞬間を眺めながら、私はぼんやり思った。
そのうちうとうと眠ってしまったらしい。ふと気づくと階下から母が呼ぶ声がした。
「おかえり。ねぇ、お昼食べるでしょ?」
素麺をすすりながら、母は息つく間もなくしゃべっていた。庭のバラが咲いたこと、姉の息子つまり孫の運動会のこと、町内会のバスツアーで食べたイカがおいしかったこと……話好きな母のこと、話したいことが溜まっているのだろう。適当に相槌を打つのにも飽きてきた私は、話の切れ目を見計らって話題を変えた。
「そういえばこの間、マネーセミナーに行ってみたんだ」
私はセミナーで聞いた話をかいつまんで話した。母はふんふんとうなずきながら聞いていたが、私が「賃貸マンションに家賃を払い続けるより、自分のものになるマンションを買った方がいいかなぁと思ってるんだよね」と言った途端、みるみる顔を曇らせた。
「あんた、結婚はもう諦めたってこと?」
「え?」
「独身女性がマンションを買うなんて、周りは『あー、あの子は結婚を諦めて仕事一筋に生きるんだ』って思うのが当然でしょ。お嫁のもらい手がなくなるじゃない」
「そ、そりゃあ今は結婚の予定はないけど、別に諦めたわけじゃないよ」
「だいたいマンションを買えるような独身女性って高収入のキャリアウーマンじゃないの? 普通の会社員のあんたがマンションなんて買える?」
「今は超低金利時代だから、毎月のローン返済は賃貸の家賃と同じくらいで収めることもできるし、消費税が上がることも考えると、いい物件があったら考えてもいいかなって思ってる」
「そんなこと言って、もしもマンションを買ったあとで結婚が決まったらどうするのよ」
「賃貸に出すとか売却するとか、いろいろ方法はあるから大丈夫。なんなら私はダンナと一緒に新居を買って、私のマンションはお母さんに住んでもらってもいいんだよ。きっとダンナも賛成してくれると思うよ!」
むきになって言い返しているうちに「ダンナ」とか「私のマンション」とか口走っていて、気がつくとマンションも夫も手に入れたつもりになっている私。母は母で「娘が買ったマンションで一人暮らしする私」を想像したのか、まんざらでもない顔になった。
「そうねぇ、この家も古くなってきたし、お母さん一人じゃ広すぎるし……それもいいかもね。あんたが夫婦喧嘩した時はお母さんのマンションに泊めてあげるよ」
「いやまだ結婚してないし、第一お母さんのマンションじゃないし! 私のマンションだし!!」
「それでそれで?どんなマンションを買うつもり? お母さんもモデルルームを見てみたいなぁ」
マンション購入反対派だったはずの母がいつの間にか推進派に翻り、「私のマンション」が俄然現実味を帯び出した。
帰りの電車に揺られながら、私は思いを巡らせていた。
マンションを買ってやりくり上手に変身した新婚の真央。住宅ローンの悩みがきっかけでファイナンシャルプランナーに転身したワーキングマザーの咲子さん。私がマンションを買ったら、どんな私になるんだろう? 独身のままでも結婚しててもいいけれど、マンションを買ったことを後悔するのだけは嫌だ。「マンションを買ったおかげで幸せになれた」と胸を張れる私でいたい。
私が幸せになれるマンション、絶対に見つけよう。
今すぐネットで物件検索したい。うずうずしているうちに電車が博多駅に到着した。改札口が大勢の乗降客でごった返す中、隣の列の自動改札で「ピンポーン!」と警告音が鳴って扉が閉まり、男性がせき止められた。周囲の冷たい視線を浴びながらひどく狼狽してポケットをまさぐる男性の横顔が目に入り、私はあっと息を呑んだ。 「建斗?!」
to be continued…
全7話・毎週金曜日配信
WEB小説「角を曲がれば」あらすじと登場人物はコチラ