こんにちは、アヴァンティスタッフのエツコです。
先月に引き続き今回も浮世絵のお話をしていきます。
第2回目は、「写楽とは何者?」です。
写楽は、1794年に10か月活動した浮世絵師です。
ちなみに葛飾北斎は18歳から亡くなる88歳まで絵師として活動していました。
(北斎は北斎で異端の存在ではあるのですが)
10か月という期間の短さは、彼が浮世絵師として全く人気を博さなかったことも一因にあります。
写楽は喜多川歌麿を輩出した蔦屋(つたや)重三郎のプロデュースのもとデビューしています。
しかし、彼の描く大首絵(役者のブロマイドのような絵)は、当時の感覚ではとても「醜い」ものでした。よく言えば、「写実的」。
デビュー当時、面白がられはするもののそれは長続きしませんでした。
さて、写楽は一体どこから流星のごとく現れ、どこへ消えていってしまったのでしょうか。
実は、写楽が何者なのか今でもはっきりとはわかっていません。
ですが、一つ有力な仮説として、写楽は「役者」だったと言われています。
写楽が描く大首絵はまるでその人のことを知っているかのようにやけに「写実的」なのです。
大首絵に描かれる歌舞伎役者は江戸の浮世では憧れの的です。
ですから、普通浮世絵師たちの描く役者は、まるで白馬の王子様のように、高嶺の花のように憧れの姿でなければいけません。
もし写楽が本当に役者であれば、どの絵師よりも近くで本物の歌舞伎役者たちの姿を見ています。
そのため、彼の目には役者たちが違った角度で見えていて、より写実的な表現で描かれたと考えてもおかしくはありません。
蔦屋重三郎は、写楽にアートの才能を見出したもののまだ時代が追いついていなかったのでしょう。
恐るべしツタジュウ(ちなみに「TSUTAYA」の由来もこの蔦屋重三郎から来ています)!
それでは今日のコバナシはここでおしまい!次回もお楽しみに。