市五郎(いちごろう)さん
『無法松人力車 小倉屋』
俥力頭(しゃりきがしら)
北九州市出身。高校卒業後、地元企業に就職。30歳で退職し、農業を体験した後、2000年から11年間、高齢者の介護施設で福祉の仕事に就く。在職中、「無法松の一生」に感銘を受け、人力車の起業を決意。2012年4月、北九州市立大学地域創生学群に入学。2012年10月『無法松人力車 小倉屋』を創業。
http://www.kokura-ya.jp/
市五郎さんへ3つの質問
Q. この仕事に向いている人は?
A. 地元が好きな人。無鉄砲で熱い人。
Q. あなたのバイブルは?
A. 地域の先輩方です。
著名人よりも、目の前で接する人から得る助言が、大きな学びになっています。
Q. あなたのメンターは?
A. 大学の仲間たち。
心が折れそうなときも、いろいろ話を聞いて支えてくれました。
小倉に無法松の風景を再現。
人力車でまちを元気にしたい。
小倉城周辺では、昨年10月から人力車が走っている。車夫名の「市五郎」は、無法松のモデルとなった人物にちなむ名前だ。観光客には小倉の昔話を交え、コミュニケーションを楽しみながら市街地の名所を巡る。結婚式や地域イベントの演出、地元の常連客も含め、通算延べ約600人を乗せてきた。今年は創業以来、初めての夏を越す。
難しいとわかっていても湧きあがる想い
介護施設の職員時代、市五郎さんは入所者に楽しんでもらうために、毎年文化祭で芝居を上演していた。台本のネタ探しで「無法松の一生」を読み、主人公の生き方に感動。「こんなにもいい話だったのか! と、号泣しました。小倉気質を象徴する無法松を、もっと伝えたい。そのために、無法松の職業だった人力車夫を蘇らせたいと思ったんです」。
人力車の営業が難しいことは百も承知だが、想いはどんどん膨らんでいった。しかし周りからの批判的な意見も多く、実現するには大きな壁が立ちはだかった。だが「たとえいばらの道でも大事だと思ったことはやってみる。そんなアホな奴がいたっていいじゃないか」。そう考えてさらに一歩踏み出したが、厳しい現実に悔し涙を流した。夢を諦めるために長崎の師匠のもとを訪れ、家族を乗せてこれが最後と人力車を曳いたが、うれしそうな子どもの笑顔に「もう一度だけチャレンジしてみよう」という熱い思いが蘇った。
そしてようやく小倉城周辺で人力車を曳くことができるようになったが、小倉で1人やり続けることについての不安は常にあった。だが当時足を運んだ浅草修業で、俥力頭が「人力車夫のこころの故郷は小倉なんだ」と励まされ、弱い気持ちが吹っ飛んだ。
自分自身が故郷の観光物になる
経営者の先輩、友達や家族に支えられ、市五郎さんはついに小倉で無法松人力車を開業。時間もかかったがお金もかかった。人力車の製作費用は約200万円。起業の半年前には、社会人枠で大学に入学した。まちづくりの知識を学んでもっと自分に力をつけたかった。秋に創業し、冬は冷たい風に吹かれながらも、小倉のまちの人の温かさを感じた。「声をかけてくれたり、温かい飲み物を差し入れてくれたり。皆さんの優しさが身に染みました。小倉が以前よりも好きになりましたね」。
地域の宝は人であり、そこに育った文化。北九州には素晴らしい素材がたくさんある。今後は移動できる観光物という特性を活かし、さらにイベントへの出張を増やしていく予定。「地元の方にもっと気軽に乗ってほしいですね」という市五郎さん。明るい笑顔を絶やさず、自分の気持ちを正直に語ってくれた。